人生に必要な物はすべて幼稚園の砂場で学んだ、という言葉があります。
さて、フェルメールというお兄ちゃんがおり。オランダバロックの巨匠です。
オランダバロックというとレンブラントがおり、いずれも明暗、光線の画家ですが、レンブランは聖書のお話や集団肖像画などスケールの大きいのが好きで、フェルメールは部屋の中でお姉さんが何かしている、みたいな無印良品で小さめサイズ(50X50cmくらい)のやつが得意だった。
さて、当時の絵「手紙を書く女(1655年頃)」いってみます
あれ、フェルメールじゃないじゃん
その通り。ヘラルト・テル・ボルフという、同時代のオランダの画家です。
「手紙を書く女」というのは複数の人が扱ったテーマらしい。
で、フェルメールの「手紙を書く女(1665頃)」です。
テル・ボルフのほうは「とにかく端正」。あるべきものがあるべき形で、正確な遠近法で描写されており。見ていて安心?な絵だと思います。
フェルメールも端正ではある。でも「なんかほっておけない」絵になっています。美しいね、安心だね、と通り過ぎることを許さず、あぶなっかしい何かに立ち止まらされ、取り込まれてしまうのです。
で、よくみると、フェルメールの方は「ゆらいで」おり。
◎椅子の角度とかが微妙に歪んでおり、お洋服で隠されているが、ちゃんと腰かけられているのか?そして遠近もちょっと「ゆらいでいる」?
◎真珠の首飾り?とか、宝石箱の鋲?とかの輝きが強調されていて、フェルメールならではの表現になっている。これをデフォルメ、オーバーな表現と言ったら怒られるだろうか?
この「ゆらぎ」がもっと典型的なのに、「牛乳を注ぐ女(1659年ころ)」があります。
まず、全体的なパース(遠近)から。微妙にずれているんですよね。。。右足元の箱(カイロらしい)とか、窓枠の一番下の枠と、枠に接する壁の木製?部分の線が平行すぎね?とか。(考えすぎかな?消失点を右手首上くらいとみています)
きわめつけが机で、壁にぴったりだったら、めちゃくちゃ台形の机だし、ピッタリつけてなくて、斜めに置いてあるんだったら、青い水差し?を置ける広さがなく、落っこっちゃうぞ?だし。
でも、フェルメールの場合、不手際でこういう「ゆがみ」が出ちゃったのではなくて、あえて「ゆらぎ」のある絵にしたのだと思います。
ううむ、遠近をあえてずらすと?こういう絵があり
ジョルジョ・デ・キリコ「街の神秘と憂愁」1914年
机のゆがみと言えば。。。
セザンヌ「台所のテーブル(籠のある静物)(1890年)」
セザンヌのは、机だけじゃなくて、置物も歪んでいるけど。
そもそもポワンティエとか、対象の色彩を「常識として決められている色」から「光として見える色」「光の効果」の描写に進化させた点では、印象派のさきがけだったかもしれん。
ルノアール「ピアノに向かう娘たち(1892年頃)」
ということは。。。。
「近代以降から現代アートまでに、いろいろな画家たちが編み出した表現は、実はすべてフェルメールの絵の中に存在していた」
つまりは
「絵画に必要なことは、すべてフェルメールの絵で学べる」なんちって
すみませんウケ狙いでテキトーなことを書いているかもしれません。でも、フェルメールさんの絵を勉強すると、絵画のエッセンスがかなりのところまでわかるようになるのかな?と思うようになりました。
あと、フェルメールのすごい所は「カマラオブスクーラ」という「製図機」を使っているようで、この製図機の制約を超えた絵を描いているところにあり。
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